旅作家・武重謙が世界一周しながら、各地でインスピレーションをえて書く世界一周小説FACTORYのイラン編。※この文章はフィクションです。
ひどく古い水タバコの煙
イラン中心部にある、砂漠の町ヤズドの旧市街を歩いていた。
歩けど歩けど砂を固めたような壁の建物が並んでいる。最初こそ、その異国らしい情景に感激し、歩いてはカメラのシャッターを切り、また歩いてはシャッターを切り、と繰り返していたが、今ではその好奇心も汗に溶け出し、照りつける太陽で蒸発してしまっていた。
ふと周りを見ると、路上に誰もいなかった。イランを旅している間、何度か経験したことだった。さっきまで人が行き交い、店が開き、活気があった町が、突如として初めから誰もいなかったかのようにしんと静まり返るのだ。風で飛んだ枯葉でさえも宙に浮いたままで、落ちたアイスも溶けず、ただジッと何かを待っているようだった。
太陽は真上にあった。どこか陽射しから隠れる場所を探してさらに歩いた。さっきまで時々吹いていた風も、今はもう吹かない。喉がカラカラに渇いていた。乾ききって汗も流れなかった。意識がぼんやりし始めた頃、茶屋の前に差し掛かった。
薄汚れたガラス戸から中を覗くと、大勢の男がペルシャ絨毯が敷かれた椅子に腰掛けて水タバコを吸っていた。反射的にその店に飛び込んだ。
店内には煙が充満していた。並んだ男たちは赤や青の水タバコを吸うためのガラスの瓶を並べて、ある者は黙って、ある者は大声で笑い、ある者は歌っていた。誰もが目を輝かせていた。隅の空席に滑り込むと、痩せた老人が角砂糖と茶を持ってきた。
「水タバコを吸うかい?」
「ええ」
「味は? バニラ、いちご、チョコ、コーヒー、なんでもあるよ」
「任せるよ」
「今朝、店の奥で古いタバコの葉を見つけたんだ。たぶんリンゴ味だと思うんだけど、なにしろ古いんだ。甘いようで苦いし、酸っぱいようで香ばしいんだ。人によって言うことが全然違う。珍しいから試してみるといい。こいつらみんなそいつを吸っているんだ」
頷き返してから、口に角砂糖を放り込み、茶で溶かした。老人が水タバコの瓶を持ってやってきた。紫色の瓶だった。
マイクのような吸い口から大きく吸った。瓶の中の水がボコボコと音を鳴らし、口に煙が入ってきた。それは最初こそ甘かったが、少しして苦味に変わり、酸味が出て、しまいにはスモーキーな香ばしさが姿を現した。それがまた甘味に戻り、その後もいろいろな味に変化した。夢中で吸った。吸うたびに別の味がした。ニコチンのせいか、頭がぼんやりした。
背もたれに頭を預け、室内に充満する煙を見ていた。みんなが吐き出した煙は宙に漂い、ゆっくりゆっくりと出口に向かって流れていた。その流れに誘われて、ガラス戸を見た。
外の通りで水の流れる音がした。雨か、と空を見ようとしたがひさしに遮られて見えなかった。だいたい雨のわけがないのだ。さっきまで痛いほど晴れていたのだから。
首を振ってからまた水タバコを吸い、外を見ると路上に人が溢れていた。敷物を敷いて、その上で色鮮やかな花瓶や顔が映るほど磨かれた銀食器が売られていた。馬やらくだに乗った人がその混雑の合間を行き交っていた。人々は路上に座る物売りとの間で銀貨をやりとりしていた。女性は全員まっ黒いチャードルをまとっていて、目の周りしか見えなかった。これはイランでよく見かける姿だったが、男の格好は違った。今まで外を歩いていて見たのは普通のシャツやズボンだったが、今ガラス戸越しに見える男性は黒か茶のマントのようなものを羽織っていた。また多くの者は白いターバンを巻いていた。
店内を見渡すと誰もが小さく薄汚れたガラス戸を見ていた。
「いつのまにあんなにたくさんの人が来たんでしょう?」と隣の老人に聞いてみた。
「たくさん? 婆さんがひとりと猫が一匹いるだけじゃないか」
「いや、だって……」と改めて外を見てみると、裕福そうな商人がゆっくりと商品を見ながら歩いていた。後ろに大勢の若い男たちを率いている。伸び放題の髭があごにぶら下がるように生え、赤くふわりとした奇妙な帽子を被っている。どこかで見た顔だった。ガイドブックだったか……。なにかの歴史書か……。彼の格好はイスラム教徒らしくなかった。顔もヨーロッパ系のつくりだ。
「マルコ・ポーロ? シルクロードを旅した……」と思わず声に出してしまった。隣の老人はこちらを見てにやりとした。
見間違いだ、とまたガラス戸を見ると、もう誰もいなかった。その代わり、馬に乗った男たちが左から右へと駆けていた。人も馬も小柄だが、骨太のがっちりした体型をしていた。何頭も何頭も、絶え間なく馬に乗った男たちがやってきた。巻き上げる砂埃で道路が見えなくなるほどだった。
「昔モンゴル人がイランに攻めてきた、とは書いてあったが……」
その砂埃が風に溶けると、ゆっくりと歩く男女の列が現れた。みなうつむいている。泣いているものもいる。しばらくたって、お棺のようなものが担がれてきた。どうやら葬儀の列らしい。人の列の上をカラスが飛んでいる。カラスの視線の先は一直線にお棺に向かっている。
今朝、見に行ったばかりの沈黙の塔を思い出した。1930年までは鳥葬を執り行っていたという場所だ。そこに向かっているように見えた。
「まさか……」と慌てて、立ち上がり、ガラス戸を開けた。誰もいなかった。鳥もいない。店に入る前と何ひとつ変わらない。落ち葉ひとつ動いていなかった。
自分の席に戻り、水タバコを吸うともう燃え切っていたようで、水がボコボコ鳴るだけで、煙は口に入ってこなかった。もうガラス戸越しの景色も変わらなかった。ただ誰もいない道が見えていた。
「ちょっと!」と店の主人を呼んだ。
「同じのをもう1つもらえるかな」
「――すまんね。もうないんだよ。他のなら何でもあるがね」
「ちょっとでも残ってないかい? ひと吸いでもいいんだ」
「すまんね」
肩をすくめてから、老人はまた「すまんね」と繰り返した。
諦めて金を払い、席を立った。外に出るのが惜しかった。振り返ると、みんな恍惚とした表情で座っていた。泣いている者さえいた。歌っていた男は、疲れ切っているようだったが、それでもなおボソボソと歌を口ずさんでいた。
店の主人がガラス戸を開けてくれた。
「さ、外の空気でも吸って歩くといい。せっかく来たんだから、今のイランを楽しんで――」
落ち葉が風に吹かれて飛んでいた。
文・写真:武重謙
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