旅作家・武重謙が世界一周しながら、各地でインスピレーションをえて書く世界一周小説FACTORYのイラン編の第4弾。※この文章はフィクションです
聖地の女性と異国人
前を歩く女性が何かを落とした。ピンクのカード入れに見えた。
それを拾ってすぐに手渡せればどれだけいいだろう、と考えているうちに、ぼくはカード入れを跨いでしまった。心にチクリとしたが、受け慣れた刺激だった。
ここはイスラム教の聖地、イマーム・レザー廟である。イスラム教徒が一生に一度は行きたいと願う場所だ。大勢の人が奥にある礼拝所に向かっていく。男性は普段と変わりないが、女性は全身を覆うまっ黒いチャードルを羽織っていて、目のあたりにポストの投函口のようなスリットが開いているだけだ。
強い視線を感じた気がした。礼拝所に見られているようだった。イスラム教徒でもない自分はここでは異教徒なのだ。異教徒である自分が、ここで落とし物を跨いでいくことは大きな罪のように思えた。
慌てて人の波に逆行し駆け戻った。もうだれかが拾っていればいいと思ったが、そいつはまだあった。拾ってみるとカード入れは安っぽいポリエステル製。落とした女性の姿を目で追ったが、誰もがチャードルを羽織って同じに見える。
急いでカード入れからカードを出した。IDカードがあった。勉強したてで慣れないペルシャ文字だが、どうにか名前を読むことができた。
「ナスリー・アサーラ!」
声を張り上げてみたが、誰も振り向かない。まっすぐ行ったはずだ、と人混みをかき分けながら、繰り返し「ナスリー・アサーラ!」と叫んだ。周囲の視線が集まった。あのマントに開いたスリットに睨まれると、人ではない抽象的な何かに睨まれているような気がした。それでも取り付かれたようにピンクのカード入れを高く掲げ「ナスリー・アサーラ! ナスリー・アサーラ!」と叫んだ。
唐突に自分の前にチャードル姿の女性が現れた。叫ぶのに夢中になって、彼女が近付いてくるのに気が付かなかった。目を覗き込もうとしたが、逆光になってスリットの奥は見えない。
「ナスリー……、アサーラ?」
彼女はぼくが高く掲げたままだったカード入れをひったくり、何かペルシャ語で言い残して、また人混みに溶けていった。チャードル姿の彼女を見つけるのは、もう不可能だった。
人混みはぼくを避けながら、緩やかに流れていた。呆然としていると、後ろからしわがれた老婆が声を掛けてきた。
「ここは聖なる場所です。静粛に願います」
冷静な口調なだけに、厳しさが一層強調されていた。
その老婆も人の流れに乗って礼拝所に吸い込まれていった。ぼくは精一杯の抵抗として舌打ちをしてから歩き始めた。いっそ自分にもチャードルがあれば、と初めて思った。
礼拝所は人が作ったとは思えないほどの、完璧なデザインだった。いくつもの青を組み合わせた混色の青が空よりも深い。曲線も直線も、改善の余地のない、隙のないデザインだ。設計士の執念を感じる。流れる空気さえ、周到にコントロールされているようだった。それだけに、その空気を乱した自分は受け入れてもらえないような気がした。
礼拝所の入り口は出入りする人でごった返していた。入るタイミングを見計り立っていると、数段高い入り口から中年の男がぼくを指差した。その後ろでチャードルを羽織った女性が男に何かを囁き、男は答えるように頷いている。その横に腰の曲がった老婆がいる。さっき「静粛に」と告げた老婆にも見える。
ぼくは男の指差す先が自分でないことを祈るようにうつむいた。が、男はぼくに向けた指を降ろすことなく、階段に足を出した。考え始めると、自分の落ち度ばかりが気になった。長い旅で穴があいたシャツを恥じた。傷んで膝と裾のあたりがほつれているズボンも恥じた。髪は伸びっぱなしで、髭も無精髭。この格好が失礼だと思われてはいないだろうか? あのカード入れを盗んだと思われてはいないだろうか? 高らかに名前を叫んだことを咎められないか? あるいはカード入れからなにかを猫ばばしたと思われてはいないだろうか? イスラム教の聖地で、ムスリムではないぼくが、ムスリムに追われるのはマズい。そう直感した。無性に怖かった。
入り口付近で渦を巻いている流れを横切って、その場から逃げた。人が多くて、走ることはできない。ちらりと振り向くと、男はもうすぐそこにいた。自分の恐怖に駆られた顔を見られたと思った。それ自体が、何かを告白しているようなものだ。
後ろで男が何かを叫び、それに反応してぼくの前にいた白髪の老人がぼくの肩に手を掛けた。そしてニコリと笑う。
「彼が呼んでるよ」
と言っているうちに、追ってきた男の手が、もう一方のぼくの肩に乗った。
「逃げなくて、……いいんだ」
普段運動をしないのか、肩で大きく息をしている。胸に手を当てて、呼吸が整うのを待っていた。ぼくは、いかにも気のよさそうな男をこうして疲れさせたことを、また恥じた。
「さっき、娘のサイフを拾ってくれたね」
「え、あ、はい。カード入れ、ですか?」
「ああ、そうそう、カード入れ。さっき娘から聞いたんだよ。知らない男に突然名前を呼ばれて、しかもその男が自分のカード入れを持っているもんだから、驚いてしまったって言うんだ。で、酷いことを言ってしまったって言うから謝りたくて君を探していたんだ。外国人だから探しやすくて助かった」
男はそう言って笑っていた。いつのまにか男の影に隠れるように女性が立っていた。彼女は半身に構えて、決してこちらを見なかったが、手にはピンクのカード入れを持っていた。
「酷いことをぼくは言われたんですか?」
「そうなんだよ」と男はまた笑った。「返して泥棒、ってね。盗まれたと思ったらしいんだが、よく考えたら、盗んだ男が自分の名前を呼ぶはずもない。当たり前のことなのに、男性に名前を呼ばれて気が動転していたっていうんだよ」
「男性、ってぼくですか?」
「ここじゃ、未婚の女性が外で男と喋ってるわけにもいかないんだよ。慣れてないんだ。だから、私が変わって言うよ。カード入れを拾ってくれてありがとう。助かったよ」
「いえ、いいんです」
「君は旅行者だろう? 良かったらこのあとうちに来ないか? なんなら泊まっていってもいいんだ。イランの家庭料理を食べさせてやろう。な? そうしろ」
男はぼくに握手を求めた。それに応じると同時に、後ろにいたナスリー・アサーラは小声で「ありがとう」と囁いた。気のせいかと思うほど小さな声だったが、ただただ暖かい声だった。聖地と言われるこの場所にいることを、初めて許されたような気がした。
文・写真:武重謙
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