旅作家・武重謙が世界一周しながら、各地でインスピレーションをえて書く世界一周小説FACTORYのイラン編です。※この文章はフィクションです。
「ATMはどこにあるの?」と聞くと、同じドミトリーの旅人たちは一様に目を丸くした。
亮平は妻と目を合わせ、首を傾げてから「もしかして遠いの?」と改めて聞くと、みんなが顔を見合わせた。短い沈黙のあと、短い金髪の真面目そうな青年が意を決したように「もしかして現金を持ってきてないの?」と亮平と妻の顔を交互に見た。
「現金は緊急用に100ドルだけ……」
「イランはね、経済制裁の影響で、外国の銀行へのアクセスが一切できないんだ。ATMは町中にあるけど、イラン国内の銀行じゃないかぎり使えないよ。だからイランへ来る旅行客は現金をもってくるんだよ。本当に100ドルしかないの?」
別の旅人がガイドブックを出して、そのことが書かれたページを見せてくれた。両替所はどこにでもあるけど、彼が言うように日本の銀行から現金を引き出すことはできないらしい。妻は慌ててバックパックの奥に入れてあったサイフを出して中を見たが、日本を発つときに入れたままになっていた千円札が数枚あるだけだった。
これまでアジア諸国を旅してきて、どこの国でもATMが使えた。強盗や紛失を恐れて、いつも最低限の現金しか持ち歩かなかった。ガイドブックも持っておらず、まさかATMが使えないなど、考えにも及ばなかった。
「でも、ほら、何か手はあるはずだよ」
亮平が言うと、同じ部屋の旅人は「かもね」とだけ言って黙った。光のあまり指さない、ただでさえ薄暗いドミトリーの中が一段と暗くなったようだった。
持っている現金は100ドルと数千円……。数日ともたない。野宿とヒッチハイクだけで、隣国トルコまで行くにしても、食費だってかかるし、いくらなんでも夫婦で野宿ってわけにもいかない。
日本大使館に助けを求めるか……、誰か貸してくれる人を探すか……、と思案していると、妻は「宿のオーナーにも聞いてみようよ。こういうミスをしちゃう人って他にもいるはずだし」と亮平の肩に手を置いた。
宿のオーナーは陽気な老人だった。物心着いた頃からツアーガイドや土産物屋など、旅行客相手の商売をしていると、自慢のひげを撫でながら言っていた。たしかに彼なら何か手を知っているかもしれない。
「ああ、お金持ってこなかったの? ときどきいるんだよ」
ロビーで新聞を読んでいたオーナーは、哀れんだ目をふたりに向けた。
「もし他の旅行者から借りられるなら、それが1番だよ。イランを出たら返せばいい」
亮平はドミトリーの様子を思い返して、力なく首を振った。
「そしたら、もうひとつだけ方法があるんだ。ただし手数料がかなりかかるから、オススメはしないんだけど……」
「お願いします」
「それじゃ」とオーナーは町の地図を持ってきた。
「イランの土産物と言えばペルシャ絨毯だろう? 海外で買うよりはずっと安いとは言え、それでも大きなペルシャ絨毯は値が張る。そこで、一部の高級ペルシャ絨毯屋では非公認でクレジット決済ができるようになっているんだ。外国にいる仲間が決済してもらい、それを送金してもらうんだよ。何にでも裏道があるってわけだ」
「でもぼくらは絨毯を買いたいわけじゃないんですが……」
「そういう店ではあんたみたいに現金がほしい旅行客向けにクレジット枠の現金化をやっているんだよ。簡単に言えば、クレジットカードで絨毯を買って、その場で返品する。ただし返金は現金でもらうんだ。そうすれば銀行の決済上は絨毯を買ったことになっていて、あんたは絨毯の代わりに現金が手に入るというわけだ」
亮平は少し考えて、その仕組みが理解できると、パッと明るい表情になった。
「ただし、店側はクレジットカードの手数料もかかるし、あんたがクレジットカード経由で払った金を受け取るために、イラン国外にいる仲間に現金化してもらわなきゃならん。そこで――」
「金がかかるんですね」
オーナーは頷いて、ペルシャ絨毯屋のある場所を地図で指差した。
裏道にあると思ったペルシャ絨毯屋は大きな通りに面した場所にあった。店の前を野良犬が歩いている。ガラス張りの店内を覗くと、壁に高そうなペルシャ絨毯が掛けられている。店の奥にある机に頬のこけた初老の男が座って一心にペンを走らせていた。
ガラス戸を開けると、安っぽい、ポーン、という電子音がなった。絨毯生地の匂いが漂っている。
「日本人かい?」と初老の男は目だけをぎょろりと亮平に向けた。
「ええ」
「ヴァリさんから聞いてるよ。金が欲しいんだろ?」
「そうなんです。ここでお金がおろせると聞いたもんで」
初老の男はペンを置いて、短く強く息を吐いてから首を左右に振った。そして立ち上がり、ゆっ
くりと亮平の前までやってきた。
「おろすんじゃない。あんたは好きな絨毯を買って、それを後悔して、私に返すんだ。私は仕方なく現金で返す」
「そうでした」
男は厳しかった顔付きをほどいて、黄ばんだ奥歯が見えるほど口を開いた。
「私の名前はマジーだ。さ、好きなのを選びな。ほとんど値札はついてる。返金するときは手数料で20%差し引くから、それを考えて選ぶんだ」と言いながらマジーは亮平の手を握った。
「返品するなんて言わず、買ってくれてもいいんだよ。ここにあるのはすべて遊牧民が自分たちのために作ったハンドメイドの絨毯だ。外で買えば大変な金額になる」と肩を叩いた。
亮平は「はぁ」とあいまいに返事してから、妻とふたりでならんでいる絨毯を見て回った。どれも色鮮やかで、幾何学的な模様や、鳥や馬を描いたものが多かった。大きなものは当然高く、小さなものは比較的安かった。素人目に見ても手作りであることはよくわかる。それが味を出していると同時に、どこか悲しい哀愁を漂わせてもいた。
「作っている人を想像すると、なんか途方もない時間を感じるね」と妻が言い、亮平は何度も頷いた。同じことを考えていた。
しばらく見て回ると妻が「これなんていいんじゃない?」とひとつの絨毯を指差した。
欲しい現金よりも少し高い絨毯だ。手数料を考えれば、これくらいでちょうどいいだろう。大き
さはちょうど畳くらいで、四隅に鳥が描かれている絨毯だった。
「これにします」
マジーはゆっくりした足取りで寄ってきて、妻が指差す絨毯を見ると満足そうに頷いて亮平の肩を叩き「君たちは結婚しているのかい?」と尋ねた。
「いや、まだですけど、旅を終えたら――」
「子どもは何人ほしい?」と今度は妻に尋ねる。
「私が3人兄弟だったので、4人はほしいかな」
「ビンゴ」とマジーは手を叩いた。「遊牧民の女性は結婚が決まると、自分がほしい子どもの数だけ鳥の模様が入った絨毯を織るんだ。で、そいつを嫁入り道具として持っていくんだよ。その絨毯には何羽いる?」
「4羽」と妻は横目で数えて答えた。
「それを作った女性は4人の子どもがほしかった。だから結婚前に夜な夜なこの絨毯を織ったんだよ。ほかにもほら――」と別の絨毯を指差して「これは5羽。これは6羽。8羽なんてのもある。旦那は腰抜かしただろうな」と笑った。亮平はマジーに合わせて仕方なく笑ったあと、チラリと妻を見た。妻は片手で絨毯をさすっていた。笑っていなかった。
マジーも妻の様子を見て「もし、本当に買うなら安くするよ。そうだな。日本までの送料分、割り引いてもいい」と言った。妻はそれに答えず、亮平を見た。
「ほしくなっちゃったんでしょ?」と亮平が言うと、妻は含み笑いをして頷いた。
「それじゃ、同じ金額の絨毯がもう1つあったことにしよう。で、君らは2つ買ったうちの、1つを返品した、ということにしておく」
「お願いします」
精算や日本への送付手続きを終え、外に出た。乾いた陽射しが眩しくて目を細めた。立ち止まったまま目が慣れるのを待って目を開いた。大きな通りなのに、車も人もいない。ただ野良犬が1匹歩いている。
振り返って店内を見ると、初老の老人は机に伏してペンを走らせていた。店の中での出来事が何もかも幻のように思えた。ポケットに押し込んだ、もらったばかりの現金だけが確かなものとしてそこにあった。
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文・写真:武重謙
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