冷たい雨が降りしきる中での作業に、徹の限界が近づいていた。モンゴルに来てからというものずっと感じていた、伝える事が出来ないという悔しさ。孤独。そしてついに、徹はオドに訴えたのだった。
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「雪が降ると、この小屋に来る」
オドはそう言っているようだった。確かに今の家よりも壁は厚く、屋根も丈夫そうに見えた。
砂漠のイメージが強かったモンゴルに雪が降る。風と共に舞う砂が、冬になれば雪に変わるのだ。
その雪を見てみたい。
徹の中から自然とそういう思いが湧いてきた。電気もガスも水道もないこの場所で、雪が舞う中を羊が生き、馬が駆け、オドが生きている様を見たかった。そんな世界があるのだ、と日本にいる恋人に伝えたかった。
オドは家の窓や扉を開けて空気を入れ替えると、徹を外に連れ出して倒れた柵を指さした。徹は黙って頷いて、柵の補修を始めた。
柵を立てては針金で補強をするも、自分の身長ほどある柵を立てるだけでもひと苦労で、作業は遅々として進まなかった。
オドも並の五十歳に比べれば随分と強いものの、やはり年配の女性だった。力仕事に慣れない徹とオドでは明らかに力不足だった。
しばらくすると雲行きが怪しくなり、まもなく雨が降り始めた。北部の、しかも高地にあるこの場所はもともと涼しいエリアだったが、雨に濡れると、震えるほど冷えた。
それでもオドは休まない。徹も、指先を震わせながら働くオドを置いて休むことはできなかった。
指先が凍え、細かい作業が進まない。すべてを放り出したくなる気持ちを抑えながら、一つずつ柵を直していった。日暮れまでには終わりそうにない。
その時、オドが遠くを指さして何かを言った。誰かが馬に乗って近づいてくるのが見えた。
いつもオドの家にやってくる青年だった。どうやらオドが家にいないのを見て、心配して見に来たらしい。
「バイラルラ(ありがとう)」
徹が駆け寄ってそう言うと、彼はオドと徹を指さして「ファミリー」と笑った。徹は、家族として指さしてもらえたことがなにより嬉しかった。
彼のおかげで日暮れ前にすべての柵の補修が終わった。
片付けを終えると、オドは青年に手を引いてもらい、馬の後ろに乗った。そして、徹に何かを言い、そのまま馬で帰ってしまった。
すでに雨は止んでいたが、体は隈なく濡れ、全身が震えていた。
辛いと嘆くこともできない。毎朝の水汲みから充実感を感じていることも、ヤクのミルクが慣れれば美味しいということも伝えることができない。そして、夫に何があったのかを尋ねることもできない。
俯き気味に歩いていた徹が顔を上げると、いつの間にか遠い丘の向こうに太陽が沈み、自分の影が長く、薄くなった。赤くなった空に山影が浮かび、それもしだいに暗くなった空に飲み込まれていった。
家に着くと、オドが温かいスーテーチャを差し出した。一部屋しかない家の隅で、びしょ濡れのままスーテーチャを一口飲むと、なぜだか涙が出た。いつもより多めに作られた夕飯を掻きこむように食べ、辞書を片手にオドの隣に座った。
「電話を使いたい」
徹がそう伝えると、オドは自分の携帯電話を覗き込んで首を振った。どうやら電波がないようだった。
「どうしても使いたい」
徹が身振りでしつこく伝えると、オドは窓際に立って、外を指さした。
遠くの山に雲がかかっているのが見えた。向こうが曇っていると繋がらないのかもしれない。
翌朝、徹が朝食を食べながら昨晩オドが指さした方向を見ると、山に雲はなく、青い空が広がっていた。
しかし、電話を使いたいと伝えると、オドはまた昨日と同じ方向を指した。
雲はない……。
閃いた徹は、急いで辞書を引き、「山?」と伝えると、オドは嬉しそうに頷いた。
あの山の上からなら繋がるのだ。
「電話を貸して欲しい」
用事などなかった。ただ、自分が無事でいることを恋人に伝えたかった。そしてモンゴルの雪を一緒に見たいと伝えるつもりだった。
山に足を踏み入れた徹が頂上を見上げると、一羽の鷹が空をゆっくりと旋回していた。
文・写真:武重謙
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