旅作家・武重謙が世界一周しながらインスピレーションをえて書く世界一周小説FACTORYのインドネシア編の第二弾です。※この文章はフィクションです
最後の一枚
海の向こうに夕陽が落ちかけていた。
真ッ赤に染まる景色の中、影絵になった釣り舟が港へと向かってその身を滑らせていた。克司は釣り舟から届く笑い声に耳を傾けていた。
「ねぇ」
海に向かってしきりにシャッターを切っていたリサが手を休め、克司を見た。
「あなたがうちに泊まるようになってもう一週間になるけど、あなたが写真を撮っているところを見たことないわ」
「ああ、そうだね」
克司はカメラのファインダーを覗き、しばらく考えてからカメラを置いた。
「撮らないの?」
「何を撮っていいか分からなくてさ」
「好きに撮ればいいのよ。ほら、貸してみて」
克司が首を振った。
「その高そうなカメラは飾りなの?」
「もし、あと一枚しか写真が撮れないとしたら、何を撮る?」
「あと一枚?」
リサは少し考えてから続けた。
「そんなカメラさっさと家に送ってしまった方がいいわ。ザックの重りでしかないもの」
「そりゃいいや。——でも、このカメラは親友の形見なんだ。しかも今どき珍しいフィルムカメラ。そいつはこのスラウェシ島にやってきて、日本に帰国したあと、つまらない事故で死んだんだ」
リサは大袈裟に申し訳なさそうな顔をして克司の隣に座った。
「あいつが遺したものを整理していたら、このカメラがあったんだ。しかも旅行から帰って現像もせずに……。よく見たら三十六枚撮りのフィルムのうち、三十五枚しか撮ってなかったんだ」
「どうして一枚残したの?」
「さァ……。代わりに最後の一枚を撮りに、同じ島に来てみたんだけど、まだ撮れずにいるよ」
克司は欧米人を真似て、両手の掌を上に向けて首を傾げた。リサもつられて首を傾げて、すでに真ッ黒になった海を眺めていた。
親友は島の形が自分のイニシャルであるKに似ているという理由でスラウェシ島にやってきて、転職前の一ヶ月の休暇をここで過ごした。島の南端から旅を始め、途中でダイビングやケービングをしつつ北上したが、北部に入る前に一ヶ月の期間を終えた。
——最後の一枚に何を撮るか考えているうちに、帰国しちゃった
遺品の日記にそう書いてあった。
「で、その最後の一枚を自分なりに撮ってから、あいつの写真を現像しようと思ってさ」
その夜、小さな漁師町の外れにあるリサの家で事情を説明した。
「あと数日で帰国よね?」
「ああ」
「それまでに最高の景色を探して、最高の《最後の一枚》を撮りましょうよ」
リサは目を輝かせていた。
それから帰国までの数日間、克司とリサは景色が良いと言われる場所を徹底的に回った。
「あの山から見た景色がきれいだ」と言われれば山に登り、「あそこのビーチが美しい」と言われればビーチに行った。朝日がきれいだと言われれば早起きし、夕陽がいいのだと言われれば、陽が暮れるのをその場で待った。
島の北東部から始めた克司の旅は、北西部にあるトリトリという町で終わろうとしていた。インドネシアの島々を周回する大型客船が寄港することで、インドネシア人の出入りこそあれど、外国人がやってくることはほとんどない町だった。
二人は取り付かれたようにこの町から行ける絶景を探し回った。克司の話に共感した地元の若者がバイクで二人を連れ回した。そのどれもが確かに美しい景観であり、その証拠にリサは行く先々で何十回とシャッターを切っている。
「ほら」
リサは撮った写真を克司に見せた。
「きれいでしょ?」
早朝の海辺である。薄雲のおかげで、朝日がまるで月のように丸く浮かんでいた。それが海面にたゆたい、揺らめく楕円形として映っていた。
「きれいだ」
克司は強く言い切った。
「でも、あなたは写真を撮らない」
「そう、撮らない」
「次はそのカメラをどこに持って行くのかしら?」
「この島の隣にもうひとつKの形をした島があるんだ。次はそこに行こうかな。僕のイニシャルもKだから」
「ここにもまた来てくれる?」
克司は曖昧に頷いた。
去っていく旅人を物憂げに見るリサの表情こそ、撮るべき最後の写真に思えた。自然と克司はファインダーを覗き、彼女に焦点を合わせた。
「バイバイ」
ファインダー越しにリサが手を振っていた。
文・写真:武重謙
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