ベルリンの壁の一部がアート作品になったイーストサイドギャラリーにて
「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」
こんにちは、Manatsuです。今回はドイツに来ました。
みなさんは、ワイツゼッカー氏という方をご存知でしょうか。大戦後の東欧諸国との和解や、西ドイツ大統領として東西ドイツ統一に貢献し、統一ドイツ初代大統領を務めた方です。「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります」という有名な言葉をはじめ、彼の歴史を真摯に受け止める姿勢は世界中で反響をよび、多くの人々の心に残る政治家でもあります。そんな彼が先月末に亡くなりました。それをきっかけに、現在、世界中で歴史を直視するという姿勢に注目が集まりつつあります。
ドイツ人の女の子との出会い
私はロンドンを旅行中に1人のドイツ人の女の子と出会いました。次第に彼女と仲良くなり、文化の事、生活スタイルの事、国の事など多くの事をお互いに話すようになりました。そこで、私は彼女からドイツの歴史に関する話、主にベルリンの壁についての話をよく聞きました。ベルリンの壁は私が生まれる数年前に崩壊したので、私の記憶には何もありません。ただ、両親や学校の先生などからそれはそれは世界的なニュースであり、歴史を変えるような出来事であったと聞いたことがありました。ロンドンで彼女から、「ベルリンの壁について沢山伝えたいことがある」と言われた私は、ドイツで自分の肌でベルリンの壁について学んでみたいと思い、ベルリン行きを決意しました。
彼女はライプチヒという旧東ドイツ地区で育ち、現在はベルリンで大学に通っている23歳。
ドイツにおいて、歴史教育というのは大きな重点が置かれているそうです。さらに、幼い頃から、祖父母や両親からベルリンの壁に関する経験談を聞き、彼女自身もそれを色々な人に伝えていきたいという意志を持っています。そんな彼女のおうちにホームスティをしながら、ベルリンの壁について一緒に学んできました。
ベルリンの壁の歴史
まず、ベルリンの壁を学ぶに当たって、ベルリン東西分断の歴史を知っているのとそうでないのとでは、見え方がかなり変わってきます。
"Berlin-wall-map en" by ChrisO. Licensed under CC 表示-継承 3.0 via ウィキメディア・コモンズ.
1961年にソ連の占領地域である東ベルリン、米・英・仏の占領地域である西ベルリンと、ベルリンという都市自体がベルリンの壁によって物理的に分断されました。東ベルリン、西ベルリンにおける生活の差も大きく、西ベルリンは周囲を全て東ドイツに囲まれた「赤い海に浮かぶ自由の島」となったことで、東ベルリンから西ベルリンへの逃亡が相次ぎました。地下にルートを掘ったりなど、あらゆる手段をつかって東ベルリンの住民は西ベルリンへの逃亡を試みたそうですが、その逃亡に失敗した人も多く、このベルリンの壁は物理的にベルリンを分断していただけではなく、精神的にもベルリン市民の大きな負担になっていました。そして、西ベルリンを囲んでいたベルリンの壁は、1989年に崩壊され、東西ベルリンも統一されました。
Wikipediaの「ベルリンの壁崩壊」、「ベルリンの壁」、ドイツ大使館の「ベルリンの壁 Q&A」を参照。
「壁が10センチだったとしても、変わらない」
まずはじめに彼女が教えてくれたのは、ベルリンの壁はベルリンの街の至るところに存在していたということ。西ベルリンをぐるりと囲むように155キロに及ぶ壁であったそうです。こちらの写真は、ベルリンの壁が以前存在し、今は取り壊されてなくなっている箇所に存在するモニュメントの1つです。街のいたるところでこのモニュメントを見ました。
私が初めてベルリンの壁を見たとき感じたのは、ベルリンの壁は自分が思っていたよりも、物理的に大きくないな、ということです。
私が無知だっただけなのかもしれませんが、「ベルリンの壁」というくらいだから、本当に巨大な壁というイメージがありました。それを彼女に話したところ、「誰もがベルリンの壁というと巨大な壁をイメージしてベルリンに来る。ただ、壁がどんなに大きくても、たとえ10センチだったとしても、変わらない。その境界線を越えるということ自体がほとんど不可能に近かったから。」と言っていました。
というのも、ベルリンの壁は一枚ではなく、2重構造になっていたのです。壁を越えたら、違う領地に入れるわけではなく、次の壁までの間に見張りの兵士がいたり、地雷、有刺鉄線などが設置されていたりなど、壁を越えることはまさに命をかけた行動だったと言えます。
壁のすぐ向こう側に無人のスペースがあり、またその先に壁があるのがご覧いただけると思います。
何が「幸せ」なのか
ここで一枚の有名な写真を紹介します。これは、ベルリンの壁のモニュメントにある一枚の写真です。
この写真は、ベルリンの壁の建設が始まったすぐ後に有刺鉄線を飛び超え、東ベルリンから西ベルリンに移動した兵士をとらえた一枚です。私は、この人は壁が出来る直前に西ベルリンに移動できてよかったんだな、と思ったんです。ただ、その簡単な考えは友人によってすぐに打ち砕かれました。「彼は、もしかしたら、東側に家族を置いたまま西側に移動してしまったのかもしれない、もしかしたら、生活は比較的安定していたかもしれないけれど彼にとっては西ベルリンには何もなかったかもしれないと。だから、どっち側が幸せだったっということは、一概には言えないんだよ」と。
この言葉は、この歴史を知っていて、祖父母や両親の経験を聞いて、受け継がれた彼女の持つ意見です。言葉で書くのは簡単ですが、それをいかにして人に伝えていくかということの大切さを実感した瞬間でした。
世界中のアーティストからのメッセージ
次に彼女が連れて行ってくれたのは、イーストサイドギャラリーという場所です。ベルリンの壁の一部は、オープンギャラリーとして開放され、21カ国118名ものアーティストによって描かれたアート作品となっています。メッセージ性の強い作品が多く、作品から世界中のアーティストによるメッセージを垣間見ることが出来ます。
たとえば、こちらの作品。この作品に描かれているのはトラバントと呼ばれる車です。この作品は、東ドイツの象徴であったトラバントを描いたこのギャラリーでも有名な絵として知られています。
というのも、このトラバントとは、「共産主義政権時代、東ドイツでは膨大なバックオーダーを抱えていたが、一般国民が他に入手できる大衆車が実質存在せず、一方で生産工場には需要に見合った適正な生産能力がないという、閉鎖性と停滞の反映に過ぎず、東ドイツの体制をも物語る歴史的なモニュメントとも言える自動車であった(wikipediaより引用)」。彼女によるとオーダーしてから実際に手に入れるまでは約16年間待たなければならなかったようです。
一方、旧西側ドイツではフォルクスワーゲンなどの最新車が次々に登場しており、ベルリンの壁崩壊後にこの西東の車の差は歴然としており、双方のドライバーを見比べた者に強烈なカルチャーショックを与えたといわれているからです(wikipedia参照)。両国の差を顕著に示すものが車であったという事実にすごく驚きました。
世界には壊されるべきたくさんの壁が存在する
世界には、壊されるべき(取り除かれるべき)、たくさんの壁が存在する、というメッセージが書かれています。この絵はただ、物理的な壁を意味しているのではなく、人の心の中にはいつも壁があってそれが偏見や差別を生む。そういった心の中の壁を取り除き、他の観点からも物事を見てみようという、という風に解釈されているそうです。
現在、ドイツでは、旧東ドイツ出身者と旧西ドイツ出身者との間に存在した差はほどんど消えつつあるといいます。ただ、やはり心のどこかで未だに偏見をもっている人がいるということも確かであると彼女から聞きました。私自身も旅中に、いい意味でも悪い意味でも沢山の偏見に出会うことがたくさんあります。彼女と過ごした数日は、ただ歴史を学ぶことが出来ただけでなく、偏見や幸福についても考えることのできた貴重な経験になりました。
Manatsu
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