旅作家・武重謙が世界一周しながら、各地でインスピレーションをえて書く世界一周小説FACTORYのイラン編。
※この文章はフィクションです。
彼、レザーは約束の時間に少し遅れてやってきた。少しだけ顔が紅潮していた。
「ごめん、待たせたよね」
レザーは車から降りるなり、わたしの荷物を軽々と持って、トランクに放り込んだ。そして急いで助手席を開けて「さ、乗って」と照れくさそうに言った。彼の手際の良さにわたしは見取れて、ぼんやりと眺めていることしかできなかった。我に返ったとき、何もかも任せっきりだったことを恥じたほどだった。
「もう3年ね。何にも変わらないみたい。ファーテメとは仲良くしてる?」
「去年、やっとファーテメと結婚できたんだ」
3年前、わたしが初めてイランに来たとき、最初に知り合ったのがファーテメだった。そして彼女はレザーを恋人だと言って紹介してくれた。イスラム教徒には恋愛などないのかと思っていたわたしは、レザーとファーテメの恋愛を、密やかで、とても悪いことで、それがゆえに、とても良いことだと思って心から応援していたのだ。
「本当はファーテメも来るはずだったんだけど、ちょっと忙しくて手が離せないんだ。あんまり無理させたくないし……」
「いいのいいの」
それきり彼は黙った。沈黙を埋めるようにラジオでイランのポップソングを流してくれた。
あのとき、わたしはファーテメととても仲良くなった。ファーテメは両親と住む家にわたしを連れ帰り「いつまででも泊まって」と言ってくれた。何度断っても、執拗に「あなたはここに泊まるべきよ」と言い張った。それを横でしきりに頷きつつ見ていたのが、彼女の祖母だった。
彼女の祖母は足が悪く、よっぽどの用事が無ければ椅子から立つこともなかった。それなのにわたしが泊まった最初の晩、わたしとファーテメが話し込んでいると、近寄ってきて日本のことを知りたがった。
「息子のひとりが日本にいった」
ファーテメの祖母はその息子のことを話したがらなかった。彼女が何を知りたがっているか分からず、がむしゃらに日本のことを話した。食べ物のこと。家のこと。正月のこと。容姿のこと。お祭りのこと。仏教のこと。話せば話すほど、自分がいかに日本のことを知らないかを痛感した。それでも彼女は貪欲にわたしの話を聞いた。
彼女は一通の手紙を持ってきた。日本に行ったという、その息子が書いた手紙だった。半分はペルシャ文字、半分は平仮名だった。小学生が書いたような、ミミズが這ったような、暖かい文字だった。
「わたしはにほんにいます。しごとはむずかしいだけど、みんなやさしい。あなたはげんきですか?」
日本語の教材でも見ながら書いたのだろう。その汚い文字はどんな名文よりも美しいと、わたしはなぜか思ったものだった。その意味を教えてあげると、ファーテメの祖母はまた何度も頷いた。
「息子が日本を好きだから、わたしは日本から来たあなたが好きだ」
わたしがイランを去る日、ファーテメの祖母は前日に作っていたイランのお菓子を持たせてくれた。歯に染みるほど甘いお菓子だった。
「今日は」とレザーは赤信号で止まると同時に言った。宣誓の言葉のようにはっきりとした口調だった。「ファーテメの家に先にいかなきゃならないんだ。そのあとでファーテメをつれて一緒にうちに帰ろう。いいだろう?」
「もちろん。わたしはあなたたちとおばあちゃんに会いに来たんだから」
「……ありがとう」
青信号に変わって、また彼は黙った。道路を見つめる彼の顔は妙に固い。
「ファーテメの家に行ったら、おばあちゃんにも会えるかしら?」
「――会えるよ。会いに行くんだ。彼女はぼくらの恩人なんだ。彼女がぼくらの結婚に賛成してくれたから僕たちは結婚できたんだ」と、レザーはまくしたてた。
ファーテメの家に着いた。3年前と何も変わらないようだった。褪せたコンクリート壁の塗装だけが3年という長さを感じさせた。レザーは黙って玄関を開けて中に入った。インターホンを押しもしなかった。中に入るとアラビア語で何かを唱える声が聞こえた。口調からして、たぶんコーランの朗誦だろう。張り詰めた声色だった。レザーは眉間に皺を寄せて、うつむいていた。
「ちょっと待ってて」
レザーに言われて、通路で突っ立っていた。ここには誰もいない。だけど、向こうの部屋からは人の気配がする。コーランの朗誦に乗って、人が動く気配がした。
「ひさしぶり」
ファーテメが静かに戸を開けてやってきた。口元だけがかろうじて笑っている。
「ファーテメ、どうしたの?」
「今日来てくれて良かった。――今朝ね、おばあちゃんが亡くなったの。起きたら亡くなってたの。あなたが来るのを楽しみにしてたのよ。まるで日本全部がくるみたいに、日本人が来るって喜んでいたの」
まだコーランの朗誦が続いている。
「さ、入って」
ファーテメの祖母は部屋の中央で白い布にくるまれていた。わたしが覚えているより、ずっと細く筋張っていた。
「わたしどうしていいか分からない」
本当にどうしようもなくて、ファーテメの手を握った。
「何もしなくていいの」
ファーテメとレザーの間に立って、しばらくコーランの朗誦を聞いていた。そしてそれは唐突に終わった。
「泣かないで」
ファーテメにそう言われて、初めて自分が泣いていることに気が付いた。慌てて頬をシャツの裾で拭って、ファーテメを見た。
「死ぬことは最初から決まっているの。おばあちゃんにとってはそれが今日だったの。人は必ず死ななくちゃいけない。でも永遠のお別れじゃないわ。だから静かに見送りましょう」
ファーテメの目は野ウサギのように、赤く澄んでいた。
「あなたも来て」
ファーテメに言われて、別室に移動した。そこには女性だけが集まった。
「ここでおばあちゃんを清めるの」
年配の女性が真っ白い布を数枚持ってきて、それを水に浸した。絞ったその布で、老婆の顔を拭き、身体を拭いた。
ファーテメが鼻を啜った。
見ちゃダメだ。ファーテメの鼻を啜る音は途切れなかった。わたしが見たら泣くのをやめてしまう気がした。だからとにかく彼女を見ないようにした。
この日のうちに、ファーテメの祖母は土葬された。ファーテメはもう泣いていなかった。そして全身を覆うまっ黒いマントを羽織り、顔も隠していた。だから泣いて腫れたはずの目も、外からでは見えなかった。
「これ、先週届いた手紙なの」
日本にいるという叔父が、ファーテメの祖母にあてた手紙だった。前と同じように、汚くて暖かい文字だった。
「ともだちがたくさんできた。にほんはおもしろい。だけどもうすぐかえる」
「おばあちゃん、なんて書いてあるのか知りたがっていたのよ」
何も変わらないと思っていた3年は、わたしが思うよりずっと長かったらしい。いつまでも変わらなければいいのに、と月日を恨んだ。
「実はね、赤ちゃんがいるの」
帰りの車の中でおこなわれた、ファーテメの突然の告白はやはりどうしようもなく長い時間を感じさせた。ハンドルを握ってずっと黙っていたレザーも、このときだけは潤んだ目で笑っていた。
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文・写真:武重謙
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