サラエヴォの「戦争を忘れないツアー」に参加した

2014.05.15 18:29 
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ボスニアヘルツェゴビナと聞くと、戦争のイメージを持たれる方が多いですか?首都のサラエヴォという街で戦争の歴史と、現在の街を見るツアー(Tripadviserで五つ星の評価)に参加して来たので報告します。

 

新しい発見の多いバルカン半島で、旅の面白さを思い出しております、YUNAです。

 

サラエヴォの街とは?

サラエヴォはこの辺りです。

 

ボスニアヘルツェゴビナは、旧ユーゴスラビア連邦下で一つの国でした。その首都であったサラエヴォは、1984年には冬期オリンピックも開催されるような(写真)、平和で発達した街だったそうです。wikipediaには、「ユーゴスラビア時代の1981年当時、サラエヴォのGDPはユーゴスラビア平均の133%であった」とあり、旧ユーゴスラビアの中では優等生国家だったのでしょうね。
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歴史を辿ると、サラエヴォの街は様々な宗教や文化、民族によって支配・繁栄されてきました。

国名として「ユーゴスラビア」を名乗っていたのは1929年から2003年までであるが、実質的な枠組みとして1918年に建国されたセルビア人・クロアチア人・モンテネグロまでを系譜とする。また、その間に国名や国家体制、国土の領域についてはいくつかの変遷が存在する。
wikipediaより引用。

 

その為、イスラム(モスク)、キリスト(教会)、ユダヤ(シナゴーク)等の様々な宗教の建物が混在しています。こちらはセルビア正教会の大聖堂の写真です。
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街の中心地にある道では、このラインを境に……
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片側にトルコ式の建物やモスクがあり、
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片側に近代ヨーロッパスタイルの建物や、教会があります。とても不思議な街の様子です。どちら向きに写真を撮るかで、全く印象の違う写真が撮れます。
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 戦争の傷は生々しい

前述したユーゴスラビア連邦からの独立を巡り、1992年からボスニアヘルツェゴビナでは、紛争が始まりました。ツアーでは、当時に空爆のあった市場へ行きます。
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今日の様に野菜を売る人と、買う人。買い物中の一般市民がたくさんお亡くなりになったそうです。
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この白い石碑には、よく見ると「5.2.1994」と「67」の数字が書かれています。まさに、その一瞬で67人の一般市民が亡くなりました。
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こちらの赤いボードに白地で書かれているのは亡くなられた方のお名前です。
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写真では少し分かりにくいですが、地面には爆弾が落ちて穴が空いた部分をガラスで覆い、保存してあります。
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サラエヴォローズ

その他にも、サラエヴォの街を歩いていると、時々このような赤いペンキで塗られた地面を目撃します。
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これは「サラエヴォローズ」と呼ばれ、戦争中に爆弾が落ち、その爆弾で周りに居た誰かが亡くなった「証し」だそうです。

 

最も大きな協会の前にも大きなサラエヴォローズがあります。
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まさに、この場所で20年前に爆弾が落ちて誰かが亡くなったのか……と思うと、胸が締め付けられそうになりました。

 

爆弾が落ちても、誰も亡くならなかった場所は、このように爆弾の跡だけが生々しく残っています。コンクリートが抉られ、深い穴が出来ています。
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ガイドの体験談

ガイドは当時7歳だったそうです。食べ物がなく、成長期の男の子だった為、「とてもお腹が空いていた記憶だけが残っている」と話していました。怖かったかどうかは、あまり覚えていないそうです。
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紛争当時、実に約4年間もセルビア軍スナイパーが山から街を包囲(サラエヴォ包囲)していたそうです。その為、大通りを移動する時、市民は走って通っていたそうです。ガイドの母親は仕事場に到着して靴を見ると、かかとに穴が空いていたそうです。想像しただけでも、怖い話です。

 

もう一つの悲しい歴史

世界史に詳しい方であれば、サラエヴォと聞けばもう一つの歴史的大事件を思い浮かべるのではありませんか?実は、第一次世界大戦が始まるきっかけとなった「サラエヴォ事件」が起こった場所もここです。

 

1914年6月28日にオーストラリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナント夫妻が、サラエヴォ(当時オーストラリア領、現ボスニア・ヘルツエゴビナ領)を視察中、ボスニア出身のボスニア系セルビア人の青年ガブリロ・プリンツイプによって暗殺された事件。この事件がきっかけとなって、第一次世界大戦が開戦した。

wikipediaより引用

 

その事件の舞台として有名なのが「ラテン橋」です。
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ガイドの話では、皇太子夫妻暗殺を企てていたのは1人のボスニア人青年ではなく、実に7人の青年が協力して計画しており、その内の1人が爆弾を皇太子の車へ向かって投げたそうです。けれど、当たることはなく未遂に終ったそうです。その後、皇太子夫妻が乗った車を運転していた「ハンガリー人」ドライバーが道を間違い、予定のコースを逸れたそうです。その一瞬、警備が薄くなった時を狙って、他の青年がピストルで皇太子夫妻を殺害したそうです。

 

その場所は、有名な橋の真上ではなく、実は橋の横の道路だったそうです。こちらがまさにその場所です。
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こんな裏話が聞けたのも、現地ツアーに参加したからこそですよね。興味深い内容をたくさん聞く事が出来ました。このツアーは、フリーウォーキングツアーです。前日までにこちらのサイトにメールを送信しておけば、集合時間・集合場所を教えてもらえます。

 

戦争の話が生々しいサラエヴォですが、今はこんなに綺麗で近代的なショッピングセンターも出来ており、人々はカフェでおしゃべりしていました。
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平和な街の様子を見て、二度とそんな戦争が起こらないことを切実に願うばかりでした。

 

文・写真:YUNA

 


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YUNA

YUNA

1985年大阪生まれ、大阪育ち。理学療法士として5年間働いた病院を飛び出し、世界を回ろうと決断。社会人として、アラサー女子として、関西人として、色々な事を柔軟に吸収したい!海外の面白ポイントにツッコミを入れたい!と思って旅しています。

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