旅作家・武重謙が世界一周しながら、各地でインスピレーションをえて書く世界一周小説FACTORYのトルコ編。この文章はフィクションです。
バックギャモンの駆け引き
雨の中、バスのトランクからバックパックを引きずり出して、ひと息に背負った。群がったタクシーの客引きから離れると同時に、向かいのカフェからガラスの割れる音が聞こえた。
音のする方を見ると、白髪の老人が椅子を振り上げて、目の前に座るもうひとりの老人に振り落とそうとしていた。空が光り、胃を揺らすような低い雷の轟音が鳴った。振り上げた老人の腕の辺りにいくつもつぎはぎのあとが見えた。
「何だろう?」とつぶやくと、客引きのひとりが「バックギャモンで熱くなっているんでしょうよ?」と相槌をうった。
老人は周りの人になだめられ、振り上げていた椅子に座らされた。カフェの主人は落ち着いた様子で、新しい茶を出した。興奮した老人は肩を大きく上下させたまま、テーブルの壺から角砂糖をとって、口に放り込んだ。そして目を閉じ、ジッと考え込んだあと、さいころを振った。
「本当にバックギャモンやってんだ」
こりゃおもしろそうだ、と道路を渡って、老人らの元に駆け寄った。椅子を振り上げていた老人のジャケットはつぎはぎだらけで、袖口も擦れて薄くなっていた。一方で相手の男も同じくらいの年の老人だが、アイロンを掛けた高そうなジャケットに、染みひとつないおろしたてのワイシャツを中に着ていた。空はどんよりと曇っているのに、裾からチラリと見える彼の時計は輝いていた。
「あんたも賭けるかい?」
後ろから少年に声を掛けられた。
「みんな賭けてんの?」
雨なのにカフェの前にはずいぶん人が集まっていた。みんなカフェが広げたパラソルの下にもぐり込んで、茶を飲みながら老人ふたりのゲームの様子を見ていた。
「そうだよ。今のところジョルジオさんが優勢かな」と少年は裕福そうな方の老人を指差した。「でも、カルロさんも上手なんだよ。さ、どっちに賭ける?」
トルコではカフェというカフェでバックギャモンをやる男たちを見かけた。いまいちルールは分からないが、土産話のひとつにでもなれば、という思いで賭けに乗ることにした。
「よし乗ろう!」とポケットから小銭を出しながら、少年に尋ねた。
「どうしてふたりはこんなに熱くなってるんだろう?」
「どっちが男らしいか言い争っているのさ」
手の中で小銭を混ぜながら先を促した。
「ジョルジオさんの言い分はね」と少年は裕福そうな老人に目をやった。「カルロさんは誠実じゃないって言うんだ。二十歳になる前に最初の奥さんをもらって、たんまり子どもを作ってから、次の奥さんをもらったんだ。また子どもをたくさん作って、また新しい奥さんをもらった。若い奥さんだよ」
「結婚と離婚を繰り返してきたわけだ」と頷くと、少年は首を振った。
「違うよ。離婚はしてないもの。カルロさんはね、今、3人の奥さんがいるんだ。それぞれの奥さんに山ほど子どもがいて、本人だって何人子どもがいるか分からないほどさ。奥さんだって、毎回若い人をもらうんだ。こんな不誠実なことがあるもんか! ってジョルジオさんは言うんだ。それに比べて、自分はただひとりの奥さんを大切にして、いつも愛情を注いで、生きてきたってね」
少年がそこまで言うのを聞いて、ジョルジオが顔を上げて「わしの言っていることに、ちょっとでもおかしいことがあるかね?」とこちらを見た。目は潤んで、肌はカサカサに乾燥していた。首を振って同意を示すと、ジョルジオは満足そうにテーブルのさいころに目を戻した。
ジョルジオと入れ違いにカルロも顔を上げ「あんたどこから来た?」と眉間に皺を寄せた。日本だと答えると「へぇ、日本人は真面目で誠実なんだろう? どっちが本当に誠実か教えてくれよ」と笑った。
「そりゃ、ひとりの奥さんを大切にした方が……」と言い終わるのも待たず、カルロは「違う違う」とテーブルを叩いた。
「俺はなァ、貧しい家庭の末っ子として生まれんたんだ。末っ子だからって、親は俺の結婚にほとんど金を使ってくれなかった。だから貧しい家庭の末っ子の女の子と結婚することになった。そいつが最初のかみさんだ」
そこまで話してカルロは息をついた。
「小さな土地を手に入れて商売を初めたんだ。寝る間も惜しんで働いた。それでも苦しくて芋と乾燥したパンばかり食って暮らしていたんだ。しかしなぁ、十年もたつと商売は軌道に乗った。儲かったよ。欲しいものは何でも買えるくらいにな。そんなときに仲間から相談があったんだ。親戚の子をもらってくれないかってな。そこの家は貧しくて貧しくて、食うに食えない毎日を過ごしていたんだ。金がないと娘を嫁に出すのだって難しい時代だ。かといって貧しい家に嫁がせても、娘がかわいそうだ。そこで俺に相談が来た。助けてやるつもりでその話に乗ったんだ。親戚にも金を送ってやって、商売を始めさせたさ。それが2人目の女房ってわけだ。3人目も同じさ。俺は3つの家庭を養っているんだ。おかげでどうだ?」
カルロは右手を上げた。肘の内側が擦り切れて穴が開いている。
「商売はどんどん大きくなっても、金は妻へ、子どもへ、孫へと流れていく。俺はそれで満足なんだ。食っていけない苦しさを知っているから、家族が食っていける今が幸せなんだ。それに比べてなんだ」とジョルジオを見た。「こいつはブランドもんの服やら、自分の旅行やらに金を使って、それが誠実だと言っている。貧しくて、パンも買えない人に恵んでやろうともしない」
「俺の稼いだ金だ、自由に使って何が悪い。貧しい人に金をやるのが誠実だって言うんなら、2人目3人目の妻には金だけあげて、他の男と結婚させてやれば良かったじゃないか。結局お前は若い女が欲しかったんだろ? 違うか?」
「なんだと」とカルロは立ち上がった。「俺は家族として助けてやったんだ。それしか助ける方法を知らなかったんだ」
少年は真っ赤になって怒っているカルロをなだめて座らせた。
「日本人の兄ちゃんや、俺たちのどっちが誠実だ? まさか3人も妻を抱えたカルロじゃないだろう? どうなんだ?」
ジョルジオはさいころを手の中で転がしながら訊いてきた。カルロはジョルジオの手のさいころを凝視している。
ふたりの血気に押されて、一歩下がると少年にぶつかった。
「こんなに仲が悪いのに、どうしてバックギャモンなんかやってるのさ」
少年の耳元で言うと、悪びれることもなく「これがバックギャモンの楽しみ方なんだよ。相手をカッカさせて、冷静に考えさせないようにするんだ。それがおもしろいんじゃないか」と笑った。
「で、お兄さん」と少年は催促するように手を出した。
「どっちに賭ける?」
老人ふたりも手を止めて、こちらを睨みつけた。3人の視線が集まる。空が光った。すぐに鳴るはずの雷の音を探して空を見上げた。手に持った小銭が重く冷たく感じられた。
もう二度とバックギャモンに近付くものか、と自分に言い聞かせた。
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