旅作家・武重謙が世界一周しながら、各地でインスピレーションをえて書く世界一周小説FACTORYのネパール編です。※この文章はフィクションです。
正直、面倒なことになった……、とそっと目を開けて周りを見た。
皺に垢の溜まった、赤茶けた老女が数人で暖炉を囲み、一様に「オーム・マニ・ペメ・フム……、オーム・マニ・ペメ・フム……」と唱えている。老女はみな片手にマニ車と呼ばれるでんでん太鼓のような形をした仏具を持ち、空いたもう一方の手で数珠を繰っている。聞こえる音は念仏の声と、数珠を繰る音、そして時々バチッとはじける薪の音だけだ。
窓の外にはヒマラヤの雪山が連なり、降り始めた雪が重力など素知らぬ顔で上下左右に自由に舞っている。
約3週間に渡る、長期のトレッキングにやってきた。日本にいる恋人には行き先どころか、旅に出ることさえ伝えていない。
彼女はいつも優しくて、自分のすることにほとんど文句を言わない。一方で彼女の一挙一動が着実に自分との結婚に向かっていることをはっきりと理解していた。
「家に帰ってきて夕飯ができてたら嬉しいでしょ?」という何気ないセリフが、驚くほど自分の胸を締め付けたものだった。
何もかもから解放されたくて、やってきたヒマラヤだった。3週間、電話やネットから強制的に切り離される。
トレッキングを開始して1週間ほどが経ち、何の気なしにザックの奥にしまってあったスマホを取り出し、起動させてみて驚いた。待ち受け画面に彼女からのメッセージの通知があった。
――ネパール行ったって本当? 何度電話しても繋がらないし、メー……
待ち受け画面にはメッセージの冒頭だけが表示されている。もちろんここにはインターネットはない。たぶんトレッキング初日、ポカラの宿で通知だけ受信したのだろう。インターネットがない以上、この先も読めない。
この通知を見てしまってから、彼女のメッセージの先を想像せずにはいられなかった。毎日少しずつ標高が増し、吹く風が冷たくなり、見える山脈に雪がかかるようになっても『何か連絡してくれてもいいんじゃな』に続く彼女の言葉を探し続けていた。
そもそも誰からネパール行きを聞いたのか? やっぱり怒っているだろうか? いや、意外と「羨ましいなァ」という程度のメッセージかもしれない。あるいはもう別れを切り出されているかもしれないし、アレコレ悩んで泣いているかもしれない。
そういった余計な思考は広がっては閉じ、上がっては下がり、一瞬たりとも安らかな気持ちにさせてはくれなかった。こんな煩わしいなら、いっそ帰国したら別れを告げてやる、と決意してみても、次の瞬間には、どうやって謝れば許してくれるか、と頭を悩ませている。
山間の小さな村に辿り着いた。商売っ気のない老夫婦の山小屋に泊めてもらった。外はヒマラヤの乾いた風が吹いている。小屋の中には小さな暖炉と、それを取り囲む椅子。他に客がいないようで、そこに座っているのは老夫婦と彼らに雇われている若い男だけだ。英語を話せるのはこの男だけだった。
陽が暮れてきて、とうとう我慢できなくなってこの男に恋人のメッセージのことを話した。
「いいのいいの、女なんてそうやって寂しいとか何とかって文句を言いたいだけなんだから。帰ったらちょっと優しくしてやればいいんだよ」
「でもさァ……」
老夫婦は黙って暖炉の熱で蝋を溶かし、型に流し込んでいる。甘ったるいバターの香りが部屋に広がる。理解できるはずもない自分らの会話になぜか頷いている。
そのうち興味を持ったのか、老女が男に何かを話しかけた。男は身振り手振りを交えて、それに答える。老女は深く頷き、ため息をつき、最後には首を横に振った。
「なんて言ってるの?」
「君がそのメッセージを見て悩んでるって教えたら『祈ってやる』って」
「祈る?」
「『その思いを届けてやる』んだってさ。よく分からないけど、面白そうだろ。やってみなよ」
「でも、そんなの届くわけないじゃないか」
男がそれを馬鹿正直に老女に伝える。
「『見てもいないメッセージで不安になっている人が何を言うか』って言ってる。変な婆さんなんだよ」
「魔女かよ……」
なんだか分からないが、損はしないだろうと考え、「それじゃ」とお願いしてみた。言葉が通じないなりにも老女にも頭を下げた。
老女は頷くと急いで、近くに住む老人を集めた。バターで作ったろうそくに火をともす。
暖炉の周りに集まって、その火に言い聞かせるように「オーム・マニ・ペメ・フム……、オーム・マニ・ペメ・フム……」と唱える。数珠がなり、薪が弾ける。それが延々と続いた。
陽が落ちた。窓の外には何も見えない。たぶん、まだ雪は舞っているはずだが、それも見えなくなった。暖炉のおかげで身体の前面は暖かいが、それ以上に背中が冷える。
それぞれが念仏を唱える中、小屋の老女が突然話しかけてきた。それを男が翻訳する。
「『で、あんた何を伝えたい? どうしたい?』って」
「え?」と固まってしまった。
「ほら、怒らないで欲しいとか、めんどくさいからすんなり別れて欲しいとか、なにかあるでしょ?」
「いや、急にそんなこと言われても、あのメッセージの先も分からないし、怒ってたら謝りたいけど、怒ってないかもしれないし……」
老人たちは「オーム・マニ・ペメ・フム」と唱えながら、こちらを見ている。薪が弾け、ろうそくの灯が揺れた。突然の風で戸が揺れ、カタカタと音を鳴らす。老人たちの声が少し大きくなった気もする。
何を伝えたいか分からないが、始まってしまったこの儀式を途中でやめるわけにもいかないし、今さら「何を伝えたいか分からない」と答えるわけにも行かない。
自分を睨む老人たちの目が鋭くなる気がした。
「それじゃ……」と男に耳打ちする。
「もう逃げないって伝えて」
男から聞いた老人は顔色ひとつ変えず、数珠を繰り、祈りを唱え、しばらく経って、突然終わった。
「届きましたかね?」
老女に尋ねると「さあね」と何事もなかったように、茶を飲み、雪が舞う外を見た。それっきりだった。
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文・写真:武重謙
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