旅作家・武重謙が世界一周しながら、各地でインスピレーションをえて書く世界一周小説FACTORYのインド編です。※この文章はフィクションです。
外出先からホテルに戻ると、暇を持てあましていたホテルのオーナーが声をかけてきた。
「人捜し?」
流暢な日本語だった。
「ええ」
「この町のことなら何でも私に訊いてくださいネ。何でも知ってるから」
オーナーは自分の情報通ぶりを誇るように、あごを上げた。
「まあ、人捜しと言っても、遊びみたいなもので、見つからなくていいんです」
「その人の名前は?」
「名前はたしかチョトゥ。四十年前の写真が一枚」
「チョトゥって……」
オーナーは道端に痰を吐き、呆れたように首を振り、どれどれと写真を覗き込んだ。
義和は一年前に定年退職を迎えた。妻と二人の慎ましやかな生活を楽しんでいたが、存外早く妻が音を上げた。
「毎日家にいたんじゃ老けるわよ。旅行でも何でもなさったら?」
言うまでもなく、旦那が毎日居座っているせいで羽も伸ばせない、というのが本音だろう。若い頃に行った場所にでも行ってみようかと、何気なく捲っていたアルバムに例の写真があった。
白黒写真に二十二歳の垢抜けない顔付きをした自分と、病的に細く、若いくせに取り澄ましたインド人の少年が映っていた。少年の年は十かそこら。伸びたTシャツに汚れたジーンズを穿いていた。二人の後ろに泥を固めたような家が映っており、外壁に牛糞を貼り付けて乾燥させていた。
四十年前。昭和四十八年の夏。大学を出たばかりの義和は自由人を気取り、インドを旅した。その時に出会った少年だった。貧しい村の一角に住んでいたことは覚えている。チョトゥと名乗っていた。
独り旅をしていた義和に、そのチョトゥはガイドをやると申し出た。こんな子どもにガイドができるわけがない、と思いつつ冗談半分で頼んでみると、思い掛けずうまくやってくれた。すぐに意気投合し、ほとんど遊び仲間のようになった。十日ほど遊び尽くして、彼とはそれっきりだった。
「インドで若い頃に会った友達を捜してみるよ」
妻に言うと「そう。気をつけてね……」と雑誌から顔を上げ、素っ気なく答えた。
オーナーは写真から目を離すと、煙草を取り出して口に咥えた。
「で、どうしてこの人を見つけたいの。恨みでもあるの?」
「チョトゥは本当に親切で、町を丁寧に案内して、私の食べ物の好みをちゃんと覚えて、夜になると私が好きなつまみとビールを持ってきてくれたんだ。で、そのお礼に、と日本語を教えてやった。日本語の冗談を教えて、それを言い合って笑い転げてた」
「ずいぶん熱心でいい子だね」
「そう、最後の晩に、彼がどうしてそんなに働くのか訊いてみたら、チャイ屋を開きたいって言うから、その夢に便乗したくって、当時にしてはかなり多めのチップをあげたんだ。そしたら『あなたは一生タダでチャイを飲ませてあげる』って生意気に言ってたんだよ」
「そのチャイを飲みに来たの?」
義和が頷くと、オーナーは呆れたように笑った。
「そのお金はきっと煙草代にでもなったね」
「まぁ、そういうことかな」
「チョトゥっていうのはヒンディー語で末っ子っていう意味だから、名前じゃないよ。たぶん、その子が末っ子だったんでしょ」
オーナーは最後にそう言い足して黙った。義和はため息をついて、部屋に戻った。
カーテンを開けると部屋の壁が夕陽で赤く染まった。ベッドに座り、疲れた足を揉む。義和は今日一日、彼が住んでいると記憶していたエリアで写真を見せながら聞き回ったが、誰もが首を傾げた。そもそも記憶が曖昧で、村の場所が合っているかも分からない。
シャワーで汗を流し、ベッドで横になった。写真を出して、眺めていた。見つかるなどとは思っていなかった。何か目的があった方が愉しいだろうという程度のものだった。いつ帰るかも決めていない。そろそろ探すのをやめて、少し観光でもして、帰りの航空券でも買った方がよさそうだ。
扉を蹴る音がした。
何事かと思い扉を開けると、オーナーが立っていた。両手を隠すように後ろに回している。
「——あほちゃいまんねん、パーでんねん」
オーナーは戯けた調子で言って、両手を出した。片手にライトビール、片手にオニオンオムレツを持っていた。どちらも義和の好物だった。
「——チョトゥ……か?」
「本当のことを言うと、あん時の金は煙草代と酒代に消えたけど、ギャグは日本人に受けたから、それで儲かった。今じゃ、ホテルのオーナーよ」
チョトゥは手早くビールをグラスに注いで、一つを義和に渡した。
「ビール代は払わないぞ」
「ケチだね」
グラスを当てると、夕陽が去った薄暗い部屋に涼しい音が響いた。
文・写真:武重謙
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