旅作家・武重謙が世界一周しながらインスピレーションをえて書く世界一周小説FACTORYのインドネシア編です。※この文章はフィクションです
右肩に何かが置かれる感触に身体が固まった。
乾燥した枝を肩に置かれたようだった。微動だにしないその感触はすぐに悪寒として全身に広がった。反射的に払いのけると、初めてそれが手であることが分かった。
軽い悲鳴と共に振り向くと、茶けた老人が立っていた。老人は欠けた歯を見せつけるように笑みを浮かべていた。
あずさは飛び退き、老人を睨み付けた。明らかな敵意を向けるあずさに対し、老人は変わらず口を開けたまま、むしろ目を見開いて、より一層喜びの感情を強めた。
あずさは疲れた身体に鞭を打つように、足下に置いていたザックを担ぎ上げ、その場を去った。追ってくる気配はなかったが、老人の空咳と呻くような声が背中にまとわりついた。
カツカツと強気を装って大股で歩くあずさを通り過ぎる人が振り返った。
半日以上電車に揺られ、何人もの若い男に声をかけられた。最初は旅行者として親しくしてくれているのかと思ったが、すぐに異性として見られていることを感じ、すべてを拒絶するようになった。それからは寄ってくる男がすべて下品に言い寄るチンピラのようにしか見えなくなった。
ジョグジャカルタ駅に着き、通りがかりの男に宿があるマリオボロ通りへの行き方を尋ねると、嬉しそうに大きな身振りで答えてくれた。ところが言うとおりに三十分も歩いて、それがまったく見当違いの方角であることにようやく気が付いた。
駅まで戻りリキシャのドライバーに尋ねると、歩ける距離じゃないと言われ、仕方なく送ってもらうことにした。降ろされた場所はまたも見当違いの場所……。
挙げ句の果てに突然気持ちの悪い老人に触られて、緊張感が高まった。歩きながら自然と涙が出た。肩にはまだ老人の乾いて骨張った手の感触が残っている。止まらない涙を隠そうと、近くの屋台の影に身を隠し、道路に背を向けた。
こんなことなら独り旅なんて辞めれば良かった。親にも友達にも「独り旅なんて危ないよ」と子ども扱いされ、反発するように出発したものの、結局はこうやって独りで泣いている。
最悪だ……。
素敵な出会いや、感動的な出来事なんて起こりっこない。大小の裏切りと、異国の恐怖に怯える毎日だ。
道路に背を向け肩を揺するあずさを、行き交う人は好奇心で覗き込んで去って行った。
敵ばかりだ……。
後ろで足音の一つが止まった。
「マリオボロ通りですか?」
久しぶりに聞く日本語が嬉しくなって、乱暴に涙を拭ってから振り返ると、さっきの茶けた老人が立っていた。欠けた歯が黒ずんでいる。
あずさはその場を立ち去ろうとしたが、ちょうど老人が立ちはだかる形で行く手を塞いでいた。
老人は垢の溜まった首元を掻いた。隣の屋台から紙切れとペンを借りると、何かを書き始めた。額が紙片に触れるほど近付いて、震える手で書き込む様子は鬼気迫るものがあった。時々顔を上げて頭を掻くと、綿埃のようなふけが宙を舞った。
あずさは隙を見て逃げようとしたが、老人の気配に圧倒され動けなかった。
突然、老人が紙をあずさの顔先に差し出した。あずさは驚き後ずさり、背中が後ろの金網にあたると、がちゃりと金属音を立てた。
そのメモは地図のようだった。不器用に線を継ぎ足した地図の行く先に、定規で引いたような歪な字体で「はてろ」と書いてあった。
「はてろ?」
あずさが怪訝な目つきで老人を見返した。
「ホテル。――たくさんのホテルがここにある」
「ああ、ほてる……、ね」
老人は照れるように頭を掻いて、歯を見せて笑った。
「付いてきて」と老人はあずさの前を歩き始めた。逃げることばかり考えていたあずさだったが、さっさと先を歩く老人に置いて行かれまいと必死に付いて歩いた。
歩きながら背筋を伸ばし、乾いた涙を手の甲で擦り落とした。
「ここがマリオボロ通りね」
別れ際、あずさが渡そうとしたチップを老人は片手で払うように断り、去って行った。
はてろ、と書かれた地図を大切に財布にしまい、去って行く老人の背中をいつまでも見ていた。
文・写真:武重謙
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