旅作家・武重謙が世界一周しながら、各地でインスピレーションをえて書く世界一周小説FACTORYのトルコ編。この文章はフィクションです
旅はまだ終わらない
小さな町とは言え、重い荷物を背負ってその隅々まで歩き、忠範とアニールはくたびれていた。時々、肩や腰を揉み、ため息のひとつもつかないと歩けなかった。時々駆け寄ってくる靴磨きやタバコ売りの子どもたちに愛想笑いを見せるのも億劫になっていた。
今朝、イランからの国境越えで出会ったときは「トルコは俺の国だ。宿探しは任せておきな」と自信たっぷりだったアニールだが、宿を1件まわるたびに「1年前はもっと安かった」とか「これだから東の連中はダメなんだ。西トルコなら俺の顔を見ただけで安く泊めてくれるさ」と憎まれ口をたたいた。
国境を跨いだときは、また一歩日本から遠ざかったことで、気持ちも高ぶっていたが、少しずつ落ちていく太陽に、今は打ちのめされていた。
「あそこはまだ訊いてないね」
忠範が大通りに面したホテル・アララットを指差した。
「あんなでかいホテル……、バカ高いに決まってる」
「でも、安いホテルを紹介してくれるかもしれないし」
アニールは不服そうに肩をすくめたが、少し考えて「そうだな」と頷いた。
入り口は扉と言うより門だった。思い切って開くと、赤い絨毯が一直線に伸び、左右に壺や彫刻が並んでいる。最後に一隻の船が山に到着する絵があり、いくつもソファが並ぶロビーが広がっていた。ひと組の家族がロビーの隅で荷物を抱え話し合っている以外、誰も人がいなかった。
その家族の会話を盗み聞きしていたアニールは「満室だって、言ってるぞ」とさっそくホテルを出ようとしたが、忠範は「まあ一応、聞いてみよう」と意地を張った。
受付にあるベルを鳴らすと、リンという鋭い音と共に、奥から憂鬱そうな足音をさせて、男が出てきた。身体のすべてのパーツが太くしっかりしていて、ワイシャツの袖からは腕の毛がはみ出ていた。四角い顔で、髪は都会に溶け残った道端の雪のような色をしていた。
「すまんね、満室なんだ」
こちらが何か聞く前から男は言った。アニールは「はいはい」と返事もそこそこに立ち去ろうとしたが、忠範は食い下がった。
「町中の宿を回ったけど、どこも高くて……」
10~20ドルで泊まれる宿を探しているんだ、と忠範が言うと、男は「そんな宿あるもんか」と哀れんだ目でふたりを見た。
「どう見ても」とアニールはもう誰もいないロビーを見渡してから言った。
「満室には見えないんだけど……」
男は受付にある看板を指差して「部屋があっても、20ドルじゃ泊まれない」と首を振った。看板にはシングルの部屋でも60ドルと書いてある。アニールはもう諦めて、受付に背を向けている。
「それじゃ、ロビーに泊めてもらえませんか? ソファで寝ます」
「――今日は客を取らないんだ」
男は白黒混ざった髪を掻いた。後ろでアニールがカタカタと足を鳴らしている。
「もう諦めて夜行バスで西に行こう。あっちなら俺はよく知ってるんだ。俺の故郷はここじゃない。イスタンブールに行って友だちに仕事を紹介してもらうんだ。お前の泊まるとこだっていくらでも紹介してもらえるさ。家族も友だちもあっちにいるんだ」
アニールはそう言い捨てて、ひとり外に出てしまった。
「五年ぶりに兄貴が帰ってくるんだ」男は受付脇に置いてあった酒の瓶を見た。「イスタンブールで建築の仕事を終えて帰ってくるんだよ。これからは一緒にこのホテルで働くんだ。だから今晩は飲むんだよ。飲みたいんだ、誰にも邪魔されずに。――あんたはどこから来たんだい?」
「日本から、アジアを旅して、今朝イランからトルコに来ました」
「家族は日本に?」
忠範が頷くと「会いたくならないか?」と男は重ねて聞いた。
会いたい、という言葉がくすぐったくて出てこなかったから肩をすくめてごまかした。
「俺には故郷ってものがないんだ。クルドって聞いたことがあるか? 日本人は日本に、トルコ人はトルコに帰るだろ。だけどクルド人は帰る国がないんだ。だから――それがどこであれ、家族がいる場所が故郷なのさ。だから兄貴は俺のところに帰ってくるんだ」
外を見るとアニールが電話越しに誰かと話していた。赤みを帯びた陽が彼に当たっている。
「もうすぐ兄貴が帰ってくるんだ。あんたらも一緒に飲むかい? 俺たちはそのままテラスで寝るんだ。あんたらもそうしたらいい。この時期は中よりも外の方が涼しくて寝やすいんだ」
「本当ですか! ありがとうございます」と忠範は男が言い終わるや否やアニールを呼びに走った。
「ただし客じゃないから面倒は見ないぞ。友だちとして泊めるんだ」
忠範は足も止めず、振り返りざまに「はい」と叫んだ。
事情を聞いたアニールは「でも俺は帰るよ」と笑った。西日に目を細めつつ、晴れやかな顔をしていた。
「今電話で聞いたら、西トルコの友だちが泊めてくれるって言うんだ。早く会いたいってな。何度も朝まで飲んだ奴なんだよ。土産に酒を買って帰るんだ。この町は酒税が安いから」
「でも、ここに泊めてくれるって、おもしろそうだし……」
「――帰りたいんだ。俺の旅は終わったんだ。帰り時なんだよ」
アニールはポケットに入っていた紙切れに電話番号を書いて、忠範に渡した。
「イスタンブールに来たら連絡くれよ」
それじゃ、とアニールは軽い足取りでバス停に向かった。夕陽に向かって歩く彼の影だけが薄く長く伸びて、いつまでも忠範の足下にまとわりついていた。そのうち、それも見えなくなってひとりになった。行き交う町の人の足取りも速かった。誰もが家に向かって歩いていた。
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