刑務所すら実家に変えてしまう、まさにこの世の全てを手に入れた男、パブロ・エスコバル。そんなコロンビアの麻薬王ゆかりの地をたどるツアーに参加してきました。
麻薬王パブロ・エスコバルとは
お酒と音楽とおねーさんをこよなく愛するナシオです。今回は「麻薬王」としてその名を世界に響かせたパブロ・エスコバルゆかりの地を回るツアーの様子をお伝えしたいと思います。
パブロ・エスコバルと聞いてもピンとこない方もいるでしょうが、この写真は見たことがある!という人も居るのではないでしょうか?
1980年代に隆盛を極めたコロンビアの麻薬組織「メデジン・カルテル」を率いた人物として知られていて、映画やテレビシリーズなどでも度々題材となる悪名高き男です。
エスコバルはコロンビア最大の麻薬密売組織「メデジン・カルテル」を創設し、「麻薬王」として世界中に悪名を轟かせた。
世界最大の麻薬消費国であるアメリカをはじめ世界中でコカインを密売し世界有数の大富豪の一人に上りつめた。
エスコバルの命令によって400人以上の警察官を含む人間が殺されたと言われているため、コロンビアやアメリカでは、「史上最も凶悪非情な野心に満ちた麻薬王の一人」として知られている。
2015年にはNETFLIXでパブロ・エスコバルの半生を描いた「NARCOS(ナルコス)」と言うテレビシリーズが公開された事もあり、死後20年以上の時を経て近年再び脚光を浴びた感のある今は亡き麻薬組織のボスです。
パブロ・エスコバルツアーに参加してみた
そんなドラマシリーズの影響でしょうか、コロンビアのメデジンを訪れてみるとパブロ・エスコバルゆかりの地を巡るツアーがあるという情報を手に入れました。
泊まったホステルにはそのツアーのパンフレットがありました。
悪そうな匂いがプンプンするパンフレットです(笑)
ホステルのスタッフに話を聞いてみると、いくつかのツアー会社がパブロ・エスコバルツアーを行っているという話でした。
ちょうど翌日にそのツアーへ行く宿泊客が居ると言う話を聞いたので一緒に行く事にしました。
パンフレットのツアーでは無いのですが、上記のホステル「Panela Medellín(パネーラメデジン)」で手配してもらいました。
費用は70.000コロンビアペソ、日本円で2600円ほど。朝10時にホステルに迎えが来ておよそ4時間のツアーになると言う事でした。
当日現れた英語も話す事が出来るドライバー兼ガイドさん。
そのテンションの高さに圧倒されてしまうほどフレンドリーでおしゃべりなガイドさんでしたが、そのおかげでツアーは終始明るい雰囲気で進んで行きました。
1か所目:家族と住み、敵対組織にも狙われたビルへ
まず訪れたのはメデジンの中心部にある「Edificio Mónaco(モナコ・ビル)」と呼ばれるビルでした。
このビル、パブロ・エスコバルとその家族が住んでいた建物だそうです。
しかし話はそれだけにとどまらず、1988年にパブロ・エスコバルと敵対していた「カリ・カルテル」と呼ばれる麻薬密売組織が彼の殺害を目的として車に仕込んだ爆弾を爆発させて多くの犠牲者が出た場所、でもあるという事でした…
この爆弾事件があった頃のメデジンを含めたコロンビアは麻薬組織によるテロ行為で悲惨な状態だったそうです。
さらに1989年、メデジン・カルテルは、ルイス・カルロス・ガラン・サルミエントら大統領候補者3人の暗殺、アビアンカ航空機203便の爆破、ボゴタの治安ビルの爆破などのテロ行為を実行している。そしてライバル組織であるカリ・カルテルとの抗争も激化し、メデジン周辺は無政府状態に陥った。Wikipediaより
この時代のイメージで「コロンビア=危険」のような方程式になってしまうのでしょうか…。
2か所目:パブロ・エスコバルの別荘と化した伝説の刑務所
ビルの見学の次は、パブロ・エスコバルが一時収監されていた刑務所へと向かう事になりました。
細く曲がりくねった山道を登って行くと、広い駐車場のような場所に辿り着きました。
ここが通称「La Catedral(ラ・カテドラル)」と呼ばれていたパブロ・エスコバルが収監されていた刑務所でした。
施設自体が刑務所ぽくない雰囲気なのですが、それには理由がありました。
1991年、政府や敵対者との抗争に疲れたエスコバルは、5年の服役とアメリカへの引渡忌避を条件にコロンビア政府と合意すると、「ラ・カテドラル(La Catedral、教会の意)」または「オテル(ホテル)・エスコバル」と称されるエスコバル個人用の豪華な設備を備えた刑務所(この収監先の刑務所施設自体が以前にエスコバルの寄付により建設されたものだった)に収監された。
自らの寄付で建設された刑務所施設に入ると言うのも不思議ですが、さらに麻薬売買で手にした豊富な資金で個人用の豪華な刑務所に作り変えてしまうなんてフィクションの世界の話のようです!
この施設まで車で走って来た山道もパブロ・エスコバルの援助で整備されたということでした。
パブロ・エスコバルの居室があったと言われる場所はこれ以上近づけませんでしたが…
洒落た雰囲気の建物内部に…
敷地内には敵の侵入を防ぐ見張り用の塔に…
パブロ・エスコバル専用のヘリポートまで!
もはや刑務所ではなくお金持ちの別荘のよう(笑)
というか、実際にパブロ・エスコバルは世界有数の富豪でもあったのです。
最盛期のメデジン・カルテルは、世界のコカイン市場の8割を支配し年間最大250億ドルの収入を得ていたと見積もられ、エスコバル自身も世界で7番目の大富豪としてフォーブス誌に取り上げられたこともある。Wikipediaより
ヘリポートを指さしながら熱弁をふるうガイドさん。
ガイドさん曰く、この刑務所でテレビを見ていたパブロ・エスコバルは画面に映った美しい女性と一晩共にしたいと思い、刑務所のヘリポートからメデジン市内の空港までヘリを飛ばし、手下を使ってその女性を迎えに行かせ、この刑務所まで連れてきてしまった事があるそうです…。
大雨であまりゆっくり見学できませんでしたが、「La Catedral(ラ・カテドラル)」はガイドさんの語るパブロ・エスコバルの逸話の数々が印象に残った場所でした。
3か所目:献花の絶えないパブロ・エスコバルのお墓
刑務所を後にしてメデジン市内方面へ向かい、パブロ・エスコバルのお墓がある墓地「Cementerio Montesacro」に向かいました。
広々とした敷地の墓地に着くと…
何やら記念撮影をする人々の姿が。
彼らが記念撮影するカメラの先にあったのが…
Pablo Emilio Escobar Gaviria、12月1日1949年 – 12月2日1993年
パブロ・エスコバルのお墓でした。
彼の母やその他親族と共にある麻薬王のお墓は綺麗な花に囲まれていました。
ガイドさんによると、メデジンには特に貧困層においてパブロ・エスコバルを尊敬する人々が未だ数多く存在しているそうで、そんな人たちから贈られた花ではないだろうか?とのことでした。
人々を恐怖で支配していた一面があるにも関わらず未だ尊敬されるにはこんな理由がありました。
エスコバルはコロンビア政府やアメリカ政府の敵であったが、貧困層の住宅建設、サッカースタジアム建設などの慈善事業に熱心で、無知で無学な貧困層を中心とした一部のメデジン市民の支持を得て彼らの英雄となった。~援助を受けたメデジン市民の中には、自ら警護役や見張役をかって出てエスコバルの身を官憲から守る者もいた。1982年には与党・コロンビア自由党に所属する上院議員となったが、翌1983年にはカルテルとの関係が露見し職を追われた。Wikipediaより
パブロ・エスコバルの葬儀の際には多くの支持者が彼の棺を取り囲み別れを惜しんだ話や、彼を英雄視する若者が彼の墓石の上でコカインを吸ったりしているのを見た話など、ここでもガイドさんは現実離れした逸話を紹介してくれました。
それにしても麻薬密売組織のボスが上院議員にまでなっていたとは…事実は小説より奇なり、 といった感があります。
4か所目:パブロ・エスコバルが死んだ場所
そして最後に向かったのはパブロ・エスコバルがコロンビア治安部隊に殺害された場所でした。
メデジンの閑静な住宅街の中にその場所はありました。
このグラフィティーアートが描かれた壁の奥がパブロ・エスコバル最後の場所だそうです。
先に訪れた、教会と呼ばれた刑務所からパブロ・エスコバルは姿を消しメデジン市内を転々としながら潜伏していたそうですが、1993年12月パブロ・エスコバルが息子と通話していた携帯電話を傍受・解析したコロンビア治安部隊によって居場所を突き止められ殺害されるに至ったそうです。
グラフィティーアートの一部をよく見てみると…
R.I.P Pablo (Rest in peace Pablo)、パブロよ安らかに眠れ
と、描かれていました。
ガイドさんの話によると、治安部隊が放った銃弾が致命傷になったのではなく、パブロ・エスコバルは自分で自分を撃ち自殺したのだそうです。
しかしパブロ・エスコバルの死に関しては諸説あるようで、真相は闇の中と言った所の様です。
それにしても悪名高き麻薬王の最後の場所が普通の住宅街の中にあるとは意外な気もしてしまいました。
パブロ・エスコバルが今のコロンビア人に与えた影響
パブロ・エスコバルゆかりの地を巡るツアーは以上4か所を訪れて終了でした。
帰りの道中でガイドさんはこんな事を言っていました。
未だにメデジンではパブロ・エスコバルの事を「El Patron(日本語でボスの意)」と尊敬を込めて呼ぶ人も多い。
でも彼が生きていた時代にはこうして観光客がメデジンに沢山来てくれる事も無かった。
僕は今こうして外国人旅行者と知り合える事が嬉しいんだよ。
彼が死んでメデジンが大きく変わったのは事実だね。
そんな話を聞いていると、紀元前・紀元後とキリストの誕生が起点となった西暦とパブロ・エスコバルの死を起点としたメデジンの街の変貌ぶりを重ね合わせて考えたりもしてしまいました。
2013年、彼の死後20年目にメデジンは「世界で最も革新的な街」と評価されるほどの都市になっていますしね。
メデジンの負の遺産ともいえるパブロ・エスコバルの時代ですが、それをツアーにしてしまう懐の広いメデジンの街も面白いものです。
以上、近頃は懐がさびしいナシオがお伝えしました!
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