メキシコのチアパスにて、ラテンアメリカで初めて日系移民がやってきた村「アカコヤグア(acacoyagua)」。現在はどうなっているのか、この目で確かめてきました。
お酒と音楽とおねーさん、そして歴史をこよなく愛するナシオです。今回は今から120年前にメキシコに向かった初めての移民の方々が辿り着き開拓したアカコヤグアと言う田舎の村と移民たちの歴史を紹介したいと思います。
ラテン・アメリカ地域への日系移民と聞くとブラジルが頭に浮かんできそうなものですが、実はメキシコへの移民はブラジルへの移民よりも10年ほど早く始まっていて、ラテン・アメリカ地域での初の日系移民が辿り着いた地はメキシコなのです。
1897年、明治政府の要職を務めた榎本武揚の主導で組織された移民団体「榎本殖民団」の36人(うち1名はアカコヤグア到着前に病死)が海を渡りメキシコへ上陸し、およそ120キロもの道のりを徒歩で移動しアカコヤグアの辺りへ辿り着いたそうです。
彼らが辿り着いたアカコヤグアの村はグアテマラと国境を接するメキシコ東南部のチアパス州のはずれにありました。
メキシコの首都よりも隣国グアテマラの首都の方が近いと言うメキシコ辺境の地です。(最寄りの都市、タパチュラからコレクティーボでおよそ1時間。35ペソ)
ビルなど見当たらないのどかなアカコヤグアの村。
そんな村の中央に位置する公園には1967年に建てられた榎本殖民団70周年を記念した記念碑がありました。
メキシコの片田舎の村にしては立派な石碑です。記念碑の土台部分には榎本殖民団の36人の名前が刻まれていました。
こうしてみると全ての人が移民として成功したように思えたのですが、調べてみると土地に合わない農作物を育ててしまったり病気や資金難などから移民たちの生活は大変苦しい状態に追い込まれ、多くの逃亡者が出てしまったそうです…。
そんな状況にもかかわらず日本政府からの援助を断られた榎本殖民団は崩壊し、彼らの多くはアカコヤグアを離れてしまい、たった6人しかこの土地に残らないという結果になってしまいました。
その6人のうちの1人が始めた農場が村から30分ほど歩いた場所にありました。「RANCHO TAJUKO」、「タフコ農場」と名付けられた農場です。日本風の門が印象的な農場の入り口です。
アカコヤグア周辺に踏みとどまった6人はこの農場を中心に三奥組合と言う協働会社を作って互いに助け合いながら事業を大きくしていったと言います。
彼らは地元住民の社会に溶け込み同化していくようにアカコヤグアやその周辺に根を下ろし、家庭を持ち、2世・3世…とメキシコ日系人のさきがけとなった訳です。
さらに村で見かけた商店には「KYODAI(兄弟)」の文字が。
アカコヤグアの日系人社会は世代交代が進み日本語を話せる人がほとんど居なくなってしまったそうですが、自らのルーツは意識しているのでしょう。
日系移民の眠るお墓があると聞いたので足を運んでみました。
村の公営墓地に入り、メキシコ人のカラフルなお墓を通り抜けていくと…
「先達 PIONERO」と書かれた石碑とお墓に遭遇しました。
「先達」と言う言葉を見て、今を生きる日系人たちの祖先への尊敬を感じずにはいられませんでした。
初期の日系移民は貧しい地元メキシコ人の病気を無料で診察したりするなど多くの社会貢献を行った事から、地元メキシコ人からも尊敬されたと言います。
そんな先達の社会貢献活動を見習っての事でしょうか、村を散策していると今なお日系人社会の方々が積極的にアカコヤグア村への社会貢献をしている様子が見えてきました。
・日本とメキシコの文化交流施設、江戸村
こちらは通称「江戸村」と呼ばれる日本とメキシコの文化交流施設。
清掃も行き届いて綺麗に保たれていて、気持ちの良い会館です。
この会館では日本語教室などが開かれていたとの事です。
・日系移民100周年記念中学校
そしてこの村で何より驚いたのは、「Escuela Segundaria Centenario De La Migracion Japonesa (日系移民100周年記念中学校)」と名付けられた学校の存在でした!
日系移民100周年の記念に学校の名前が変えられたそうですが、学校の名前をスパッと変えていいのでしょうか(笑)
日本政府や在メキシコ大使館や日系メキシコ人の多大な機材や資金援助を受けた学校で、日系移民100周年を機に学校名が変えられたという事です。
特別に許可をいただいて学校内を見学することが出来ました。
教室にはハイテクな電子黒板が!
日本の援助は太っ腹?! 人生で初めて電子黒板なるものを見ました(笑)
先に出て来た榎本殖民団70周年記念碑のある公園も、アカコヤグアのあるチアパス州の日系人達によって作られた物でした。
石碑だけ建てるのではなく公園まで作って寄付するという、社会貢献を忘れないメキシコ日系人社会の姿勢に胸を打たれます。石碑の裏には松尾芭蕉の一句が書かれていました。
「夏草や つわもの共の 夢の跡」(正しくは「夏草や つわものどもが 夢の跡」)
これはアカコヤグア近隣の読み書きが出来なかった貧しい地元住民に無償で教育を施した日系移民、松田英二氏の筆による物だそうです。
この句は松尾芭蕉が古戦場を見て、人の夢の儚さを感傷的に読んだ一句だと聞きます。
個人的には、「つわもの(移民)」達が切り拓いた大地は「夏草」でなく家畜や農作物で豊かな大地となり夢が実った土地になったぞ、という日系移民の清々しい達成感のような気持がこの一句に込められているような気がしました。
世界遺産や絶景をめぐる旅も素敵ですが、時には大昔に海外に出た先達たちの歴史の足跡を訪ねる旅も良いのではないでしょうか?
以上、メキシコよりナシオがお伝えしました!
世界新聞の最新情報をゲット
RANKING